休眠預金助成先
インタビュー記事 -9-
インタビュー記事 -9-
■認定NPO法人D×P
●同団体プログラムオフィサーサポーター 矢端 信也
休眠預金による助成先と各団体の伴走者(プログラムオフィサーサポーター=POS)にインタビューして作成した記事を掲載しています。
各団体のインタビュー記事はPOSが、POSのインタビュー記事はプロジェクトチームである「チーム・Dario Kyoto」が行いました。
徹底した「10代をひとりにしない。」ための活動
認定NPO法人D×P
認定NPO法人D×P(ディーピー)理事長の今井紀明さんは、高校生だった2004年、子どもたちの医療支援のために渡航したイラクで人質になった経験があります。解放後、帰国すると社会からバッシングを受け、対人恐怖症、引きこもり、PTSDなどで約4~5年間、苦しい時期を過ごしました。自身のつらい体験から、10代でそうした苦境に陥った際に、なかなか社会の仕組みとしてサポート体制がないという現実に気がつきました。そして2010年頃から10代の支援を始め、2012年にNPO法人D×Pを設立します。
最初はインターンやボランティアも含めて約7名で事業をスタート。今は業務委託含め22名のスタッフがいます。学校の授業などの現場に出てくれるボランティアには、約500名が登録しています。
■二足の草鞋からスタート、信頼を徐々に積み上げて
設立当時は、主に通信制高校と定時制高校で活動していました。学校の授業を担当し、社会人や社会との接点をつくる目的で、単位認定されている「総合的な学習の時間」に複数回入りました。授業のなかで一般の社会人の方々とつながる機会を、2ヶ月かけて4回程度つくっていくプログラムです。当時はさまざまな学校を回って活動を紹介し、徐々につながりを増やしたそうです。
札幌出身の今井さんは、九州にある大学を卒業後、商社に就職し全く縁のない大阪で働きはじめました。2010年、D×Pはまだ立上げ間もない任意団体であり、今井さんは商社勤務の傍ら活動していましたが、2012年に仕事を辞めてD×Pにフルコミット。D×Pでの最初の3年間はほとんど今井さんの給料は出ず、スタッフの給料を優先していたそうです。そうしたなかでも活動を続けるうちに、実績も積み上がり、支援者や同志のような仲間とどんどんつながっていって、組織が強化されていきました。現在の理事やスタッフもよくわからないまま活動に飛び込んでくれた人たちだそうです。「寄付者さんや学校の先生方など、さまざまな人に支えられてきました。誰かひとりでも欠けていたら、ここまで来られなかった」、と今井さんは語ります。
■世代のニーズに寄り添った「ユキサキチャット」
LINEでの相談という「ユキサキチャット」の構想は、2017年、今井さんのTwitterのダイレクトメッセージ(DM)に高校生や不登校の子たちから相談が届いたことがきっかけです。「僕が何か相談があったらDM送ってきてくれてもいいよってTwitterで呼びかけていたら、続けて連絡が届くようになりました。ネット上でしか話せない相談者のニーズがあったってことですね。若者世代にとって電話は普段あまり使わないツールなので、相談につながりにくいかもしれません」。
2021年、4年目を迎えたユキサキチャットですが、当初は今井さんがひとりで対応していました。相談業務のニーズ増加と多様な背景を持つユキサキチャット利用者に対応できるように、多様な専門性を持った複数の相談員の体制へと徐々に仕組み化しています。また相談者の個人情報保護には最大限の配慮をしています。
■社会課題の発見とシームレスに続く自分のアクション
中学生の頃の今井さんは、全国大会に行くような吹奏楽部に所属し、朝6時半から朝練、放課後も20時までと凄まじい練習量をこなし、生徒会もやっていて忙しく、社会のことをあれこれ考える時間がありませんでした。受験シーズンに入り、部活も生徒会も11月で活動が終わったとき、何かやろうと思い立ったそうです。そして多様な本を読みはじめ、札幌の家の近くで「サヘルの森」「ユニセフ」などのNGOや国連系組織が集まるイベントに参加するようになります。そこでさまざまな人の話を聞くうちに関心の幅が拡がり、同じ時期、北海道の雪のなかに溜まったごみが気になって、ごみ拾いを始めました。ひとりでごみを拾って、学校で用務員さんと仕分けをする活動。これが今井さんにとって最初の社会問題との接点です。「ごみ拾いがなかったら今も何もしていなかったかもしれません。当事者意識を持ったのは、NGOの人たちとお話ができたからです。僕から質問しまくっていました」と今井さんは振り返ります。
遡るとその頃の9.11テロが、今井さんにとっては子どもたちを軸に活動する最初のきっかけだそうです。9.11からアフガン侵攻、イラク戦争と続き、高校1年生のとき、アフガニスタンの空爆によって、罪のない子どもたちや人々が殺されている姿を報道で見て、疑問を持ち、海外に興味を抱きます。自分でお金を貯めて海外に行ったり、国会議員に会ったり、企業でインターンをしたりと、北海道から出てさまざまなところに行くようになりました。
そうしたユニークな体験の一方、中学まで友だちはたくさんいましたが、高校では同級生と話が合わず、学校に行くことも前向きには考えられなくなります。「同級生はなんで関心を持たないんだろうって疑問を覚え、学校の先生にもひとりで反発していました。ただ、今考えてみると、学校教育で社会のことをつなげて考えられるプロジェクトがあれば、自ずとみんなと話し合えたかも」と今井さんは振り返ります。
■休眠預金助成事業におけるユキサキチャットの可能性
今井さんは休眠預金助成事業には立法された当初から注目し、何かしら活用できればと思っていたそうです。現在は、10ヶ月間の助成期間において、コロナで急増している相談者に対応するためにも、主に既存のユキサキチャット事業を補強しています。オンライン上での若者のセーフティーネットとしての相談事業自体、まだ少ないのが現状です。そんななか、ユキサキチャットは不登校・中退・困窮など総合的に相談ができるという点で、相談者からのニーズが高くなっています。コロナ禍において、今日の生活費や食べるものに困る若者に、適切な支援を届けています。
今井さんは「ユキサキチャットが、より深い層にリーチできる可能性がある」と言います。TikTokやInstagram、イチナナなどの10代、20代が多く使っているアプリはいろいろありますが、そういったものに行政機関は携わりにくい側面があります。オンライン上で、どのように子どもたちにリーチできるかが支援の焦点になるなか、民間の支援が果たす役割も大きいことがわかってきたからです。
D×Pには2030年度までに、さまざまな境遇で孤立している13~19歳の全国約50万人のうち30%の15万人に対して、「安心できる人とのつながり」、「生活費が得られるつながり」、「安心して暮らせるつながり」という3つのつながりを提供できる状況をつくるという「2030ビジョン」があります。そのためにはユキサキチャットのリーチが重要になるため、まずは利用者を増やしていくことに注力しています。若者の孤立という問題は簡単に解決できるわけではありませんが、「問題が起こったときに、解決しやすい社会になっていくことが必要だ」と今井さんは言います。
■寄付型NPO経営への移行
法人設立当初から決めていた認定NPO法人化も2015年に実現。個人寄付をさらに集められるようになりました。2014年頃から大口の寄付を受けたことで、寄付先としての需要はあることがわかり、今井さんは寄付型のNPOでも経営できる、と感触を得たそうです。10代の支援や進路支援には、課題を感じている方が多く、そういう方々の支援によって組織や活動の土台が整いつつあります。また寄付者が参加するFacebookのサポーターグループでは支援状況がタイムリーに報告されており、寄付者にとっても信頼できるコミュニティとなっているようです。
最後に今井さんから一言。
「ぜひ会員になって、このコミュニティの輪に入ってもらいたいです。どうぞホームページをご覧ください」。
https://www.dreampossibility.com/supporter/
■インタビューをしたPOS矢端より■
今回のインタビューでは、「ユキサキチャット」を軸にした助成に関することだけではなく、今井さんの半生を伺いました。今井さんからは、自分より下の世代、さらに子どもの不条理な状況に対して、「何とかしたい」という軸を感じました。そうした志のある今井さんが展開するユキサキチャットというオンライン相談事業が、なぜ困窮する若者を支援する有効な手段になっているのかがわかりました。関係性あればこそ、支援もその有効性を最大限に発揮できるということを教えていただきました。
Information
団体名:認定NPO法人D×P(ディーピー)
住 所:大阪市中央区天満橋京町1-27ファラン天満橋33号室
電 話:06-7222-3001
HPアドレス:https://www.dreampossibility.com/
取材日:2021年11月29日
聞き手:矢端信也
同団体プログラムオフィサーサポーター 矢端信也
●変化を恐れず心のままに進み、ようやく出会った誇りうる仕事
サッカー少年からバンドマンへ、大学時代はバックパッカーで海外を放浪の旅。興味関心のままに青少年期を過ごしてきた矢端信也さんは、社会に出てからもさまざまな職と経験を重ねてきました。
変化を恐れずに心が動かされた方へ赴く。とことん正直な生き方を貫いてきた矢端さんが「もう動くつもりはない。この仕事をまっとうする」と決めたのが、(公財)信頼資本財団の事務局でした。ここに辿り着くまでの変化に富んだヒストリーと共に、情熱を注いでいる財団の仕事や意義についても伺いました。
●青年海外協力隊から営業職、手応えを感じた自営業もコロナ禍でとん挫
実家は群馬県前橋市に代々続く農家。大学生となり、京都でひとり暮らしをしていた矢端さんが帰省して収穫を手伝っていると、突然の雨に降られたことがありました。避難した軽トラックの車内で、父親と二人きりに。リーマンショックの前年で、周囲の友人たちが今よりもずっと早くから就活に励む様子に、焦りを感じていた頃でした。
「これまでたくさんのことに夢中になってきたものの、ここからは何をしていけばいいのか。父はどんな想いで今の自分と同じ年齢の頃を過ごしたのだろう」。普段はあまり会話することがなかった父親に、矢端さんは尋ねました。
「いずれは農家を継ぐだろうが、その前にやりたいことをやろうと学生時代の父は考えた。そして、卒業後に青年海外協力隊に参加し、そこで母と出会ったそうです」。結果的に、人生で大きな意味のあったまわり道。いや、意味などなくてもいいのかもしれない、と自らも国際支援活動に参加することを決意。さらに、大学の卒業式と同日に自身の結婚式も挙げてから、JICA青年海外協力隊に入隊したというから、矢端さんの行動力には驚かされます。
赴任先は、アフリカのケニア。首都ナイロビの郊外にある青少年自立支援施設でした。「犯罪に関わった少年たちと向き合う仕事に、興味を抱いたんです。僕自身、決して優等生ではなかったので」、と笑顔を見せる矢端さん。現地では、サッカーやギターといったこれまでの嗜みが、彼らとのコミュニケーションに役立ちました。しかし、決していいことばかりではなく、「治安の悪さから事件や事故に巻き込まれることもあった2年間だった」と振り返ります。
帰国後、フェアトレードの会社へ入社し、約7年間卸営業として従事しました。退職して個人事業主となり、さまざまな縁に導かれるようにして、オーガニックスーパーの店長となります。初めて自営業者となったときは、責任感と同時に「自分の足で立つ」喜びを感じたそうです。懸命に店長業務に打ち込み、業績もようやく上がってきたところで、コロナの影響を受けて閉店。「さすがにどうしようかと悩みました。でもそこへ助け舟を出してくれたのが、信頼資本財団だったんです」。これが、矢端さんの大きな転機となりました。
●トレードオフではなく両立をめざす-そんなプレイヤーの輩出が未来を変える
信頼資本財団との出会いは、卸営業時代のこと。取引先とSNSでつながるなかで、財団が開講しているA-KIND塾の存在を知りました。興味を持ち、第3期生となった矢端さんは、そこで熊野塾長の経営哲学にふれます。「戦後、急速に進んだ日本の工業化は、暮らしを豊かにする一方で環境に負荷をかけ続けて、今の環境問題があります。もちろん、資源だって限りがある。優先するのは経済か環境のどちらか一方。そんなトレードオフの関係を解消し、どちらも成り立たせる事業活動で実績を重ねてきた熊野塾長の、まだ見ぬ市場を創り出すという、未来にコミットする経営哲学に、大いに感化されました」。
第3期を卒塾後に、引き続き第4期にも聴講生として参加した希少な塾生でもある矢端さん。その理由を真面目な表情で話します。「今の自分では、まだその学びをカタチにできないと思ったんです。だから、とりあえずもう1年参加してみよう、と」。
信頼資本財団との関係はその後も続き、やがて本業とは別に広報や配信業務などの仕事を業務委託で請け負うようになりました。そんな折に、スーパー閉店の苦境に見舞われたのです。
「君が信頼資本財団に合流する意志があるのならば、財団に迎える」。熊野理事長によるその申し出が、今の仕事につながったことは言うまでもありません。しかもそれは、矢端さんがこれまで携わったなかで最もやり甲斐を感じる、やっと出会えた仕事でした。
「経済か環境かの問題をもっと広く捉えて、人の営みである経済活動に社会課題をドッキングすることもできるはずなんです」。その発想と熱意、実行力を持った人たちをサポートし、スタミナをつけて社会へと送り出す。それが財団の役割だ、と矢端さんは考えます。そしてそれは、個人や団体にとどまらず社会全体を、ひいては今のみならず未来をも、変えゆく力になるとの想いが、矢端さんのエネルギーとなっています。
●知見を蓄えた人と人のマッチングで、新しい活路を拓く
休眠預金活用事業でも、社会課題の解決に熱意を持って取り組む団体が採択されています。事務局メンバーもプログラムオフィサーサポーターとして担当団体を持つことになっていますが、矢端さんが担当するのは、現代の日常ツールとなっているLINEを通じて、若者たちの悩み相談を引き受ける認定NPO法人D×P。進路の悩みを核にサービスをスタートしましたが、コロナ禍となってから非常に深刻な相談が増え、食糧やお金の緊急支援や、専門的な知識を持つ相談員の拡充などに迫られました。今、多様な専門家がチームを組んで、多方向から若者たちの相談に対応していると言います。
「行政がアプローチしづらい部分にも、社会事業はリーチできる。どんな事業でも同じですが、最も大変なのは現場です。とにかくそれを支えたい一心でミーティングに参加し、団体の実状を追っています」。自分という第三者がいることで、助成先がさらに広い視野を持って活動を見渡せるかもしれない、と矢端さんは希望を口にします。こういった人と人とのマッチングで風を起こし、活路を切り拓くことも、財団のめざすところと言えます。
「トレードオフではなく両立させるって、実はかなり難度が高いですよね」、と苦笑する矢端さん。だからこそ、携わる人たちの知見を持ち寄って取り組むしかない、と前を向きます。「自分もさまざまな世界にふれて知見を蓄え、困っている人や活動の一助になれたら」。子ども時代からの矢端さんの多様な経験は、父親譲りの「意味あるまわり道」となって、まっすぐ伸びた大きな道に帰結しようとしているのかもしれません。
PROFILE 矢端 信也(YABATA Shinya)
群馬県前橋市出身。実家は農家。同志社大学神学部を卒業後、新卒でJICA青年海外協力隊に参加。ケニアの青少年自立支援施設でサッカークラブを立ち上げて指導したほか、算数や英語の教師も務めた。任期満了によって帰国後、フェアトレード商品の企画・販売を手がけるシサム工房に入社。約7年間、卸営業スタッフとして勤務する。退職後、個人事業主としてオーガニックスーパーの店長などを経験。2021年1月、(公財)信頼資本財団の事務局長補佐となり、現在に至る。
(公財)信頼資本財団A-KIND塾3期卒塾。