休眠預金助成先
インタビュー記事 -13-
インタビュー記事 -13-
■認定NPO法人マイママ・セラピー
●同団体プログラムオフィサーサポーター 西田奈都代
休眠預金による助成先と各団体の伴走者(プログラムオフィサーサポーター=POS)にインタビューして作成した記事を掲載しています。
各団体のインタビュー記事はPOSが、POSのインタビュー記事はプロジェクトチームである「チーム・Dario Kyoto」が行いました。
道なき道を切り拓きつづけた20年-“論より証拠”を体現するまちのみんなの「かかりつけほけんしつ」
認定NPO法人 マイママ・セラピー
京阪電車びわ湖浜大津駅から徒歩およそ10分、趣のある昔ながらの商店街のひとつ、丸屋町商店街の一角に拠点「マイママhouse」を構える、認定NPO法人マイママ・セラピーさん。毎月前半と後半に3日ずつ、「ご縁市」として地域住民に向け、門戸を大きく拡げています。冬まだ寒きご縁市のある一日、代表理事の押栗泰代さんにお話を伺いました。
■コロナ禍の断捨離から始まった「ご縁市」
「実はマイママhouseはもう閉じようとしていたんです」。衝撃的な告白ですが、20年にわたり地域の母子保健を担ってきたマイママ・セラピーは、さまざまな問題に直面していました。
最も大きな課題は、持続するための資金繰りでした。コロナ禍で、拠点を閉めざるを得ない期間が1ヶ月あり、その間に本格的な片付けに着手しました。この場所で10年以上活動していたためいつしか増えてしまった物品を、地域のみなさんに持って帰ってもらおう、と断捨離を決行。種々の備品等を戸口前に出し「ご自由にお持ち帰りください」と張り紙したところ、「閉めないでほしい」という声が実にたくさん寄せられたのです。予想外の反響でした。長年にわたるNPO活動をずっと見てくれていたひとたちから、「この拠点はなくしてはいけない」「今は閉め時ではない」と言われました。収益事業を行っていなかったため、毎月家賃がかかるのは痛いところでしたが、何とかその問題をクリアし、「もう1年がんばれる」と、メドが立ちました。
■休眠預金事業により実現した長年の夢「まちのほけんしつ」
元々は看護師をめざしていたという押栗さん。自衛隊員だったお父さんに誇りを感じていた押栗さんは、子どものころから、災害などが起こり世間が大変なときに家にいないという父の姿を見るなかで、将来は地域社会などで役に立ちたい、という想いを募らせました。看護師をめざしながら、保健師の資格もあれば公衆衛生看護という広い分野で活躍できるだろう、と資格を取得。行政の保健師として約13年間勤めました。
その後行政を飛び出し、地域のなかへ。それ以来、ずっと産前産後の母子保健に特化してきたマイママ・セラピーですが、コロナが蔓延するにしたがい、向き合うのが母子だけでは不十分だと痛感します。
ずっとあたためてきた「まちのほけんしつ」という構想は、まちぐるみで、地域の一人ひとりが豊かに生きられるように応援する、というものです。それを実現すべき時がやってきました。
「そういう意味では、コロナはピンチではあったけれど、逆にチャンスになりましたね」と押栗さんは話します。公衆衛生看護という観点からは、コロナが発生したからこそ、保健師や助産師、看護の基礎を学んでいる者が、「地域住民の役に立ちたい」との日頃からの想いを活かせる取組みができるようになってきたのです。
押栗さんは「人生を縦で割らなくても、ここでつながったらいいやん」という気持ちでこの場をつくってきました。産まれる前から人生の最後のステージまで。現在のマイママhouseでは全部の世代がつながります。そこには、みんなの笑顔と共に、ずっとやりたかったことができている、という自分たちの喜びもあります。
■多様かつ多彩な事業の実行が可能なワケ
マイママ・セラピーは、今回の休眠預金事業のなかで、実に多種多様にして多数の事業を展開しています。
「相談事業」は、コロナによる深刻な影響下で、各相談窓口がストップし、行くところがない、保健所による健診も数ヶ月遅れとなっている…といったママたちの困りごとを一手に引き受けています。「淡海(おうみ)助産師友の会」の助産師さんによるオンライン配信は回を追うごとに参加者を増やしています。面談は毎月の「ご縁市」で保健師、助産師、歯科衛生士、保育士といった専門職が対応。
「衛生用品の配布」は、ベビー用とシニア向けおむつの2種を用意。生理用ナプキン・布ナプキンは、オーガニックのものを高校生・大学生・一人親家庭のために200セット用意しました。おむつを必要としている方々の情報は市社協からの提供を受け、事前にチケットを配布し、引き換え方式を採用。衛生用品の配布は「きっかけづくり」と言うとおり、マイママhouseに来てもらい、小分けにして毎月少しずつ渡すことにより、「助産師さんにつながってもらうためのツール」として活用しています。
9月には佛教大学看護学科の、看護師・保健師の国家試験を受ける学生さん4名の実習を受け入れました。ベビーハグなどの実習の他、母子の協力者をあらかじめ募り、2歳児を抱えるお母さんにインタビューも行いました。「ベビー防災の講座を受けたことによる行動の変容があるかどうか」といった実践的な課題を設定し、2人がインタビュー、残り2名は記録を担当。これを基に卒論を書くというのですから、大学側にいかに信頼されているかが伺えます。「生活支援を中心とした民間保健サービス」はシニア対象ですが、コロナ以降増えた分野でもあります。インターン生が50人を対象に相談対応、30人におむつを配布しました。相談というより、高齢者が昔話を語り、それを学生が聞くという感じで、ほのぼのとした雰囲気がマイママhouseを包みました。
■今後の展開
次年度以降の展開を、押栗さんはこんな風に語ります。
「やってほしいという声が多い『ご縁市』はずっと続けるつもりです。百ちゃんから『マイママさんの事業を手伝ってあげようか』という申し出もいただいています」。
百ちゃんは、斜め向かいに店を構える八百屋さんです。夏に商店街のみなさんと協力して一緒につくり上げた「こどものいばしょ」事業以来、ますます信頼を寄せていただけるようになりました。
スタート当初から、「次、まちのほけんしつを運営していく主役はあなたたちですよ」と伝えつづけてきた助産師さんや保健師さんのなかにも、独り立ちできる方が増えてきました。強力な連携をとっている「淡海助産師友の会」代表の西村さつきさんは、マイママ・セラピーの修了生でもあります。助産師として病院勤めをしていましたが、「私もマイママのような活動がしたい」と言ってくれたことを受け、「ひとまず10年間病院勤めをしてからね」と約束を交わしました。「約束の10年が経ちました。私は開業します」と来てくれたというから、これを人財育成と言わずして何と言うのでしょうか。今西村さんはこの地域一帯のリーダーになっており、次の人財育成を牽引する立場になってきています。
また、2021年8月14日、土砂災害警戒警報にともなう避難指示が出た際には、避難所での支援にいち早く駆けつけ、衛生用品を提供、深夜まで避難所で避難されてきた方のケアに入りました。災害時看護も「まちのほけんしつ」の役目のひとつだと実感したそうです。
自然発生的に開催した「子ども食堂」では、心配な子どもの家族ともつながることができました。今後も目を離さず、そっと寄り添っていくつもりです。
マイママ・セラピーが地域のなかで果たす役割がますます大きくなっていくことに疑いはありません。
■インタビューをしたPOS西田より■
最初事業数だけを見て、あまりに多いので、大丈夫ですか、とお尋ねすると、きょとんとした顔で「多いですか?」と逆に尋ねられたのが印象的でした。その後伴走させていただきましたが、専門職の仲間にうまく振り分けて、一つひとつ完遂していく、そのやり方はまさに、マイママ・セラピーをハブとした放射状展開の事業が地域を隈なく覆っていると感じました。全国の市町村に、自分の行動半径にひとつ、マイママhouseのような場所があれば、誰もが安心して暮らせるだろうな、と感じる場面が何度もありました。
押栗さんは、日本開業保健師協会理事というもうひとつの顔を持ちます。行政に紐づくだけが保健師のあり方ではない、「開業保健師」という立場で、地域のなかでダイレクトに住民と関わるあり方があります。これからは、このように「地域のなかにこそ居場所がある」と考え、実践する保健師さんがますます必要とされる時代が来るような気がします。
Information
団体名:認定NPO法人マイママ・セラピー
住 所:滋賀県大津市中央1丁目8-6
電 話:077-511-9301
HPアドレス:http://mymama.jp/
取材日:2022年1月26日
聞き手:西田奈都代
同団体プログラムオフィサーサポーター 西田奈都代
●見えないことを“無い”ことにしたくない。だから知って知らせて、つなげたい
京都・東京・大阪の出版社を経てフリーランスのライター、構成作家として活躍中の西田奈都代さん。幼いころから好奇心旺盛で、将来なりたいものがいっぱいありました。なかでも大好きだったのが芸術に関わること。ですが、大人になるにつれ、自分を冷静に分析します。好きなことに突き進むとある意味、世間に背を向けることになる。好きなものに囲まれて生きることは心地よい、けれど狭い世界に引きこもってしまう。それではだめだ、社会に開かれた自分でいたい、そう思った西田さんは好きな世界にのみのめり込むことを自重します。見えないから、知らないからといって、それは決して“無い”のではない。人生のなかでできるだけ世界を知りたい。周囲が進路に悩む18歳でそんなことを考える少女でした。
●燃え尽きたあと、心を再び熱くしたもの
大学卒業後は京都の出版社に就職。当時はバブル崩壊前夜、学生はそれこそいくつも内定がもらえた華やかな時代でした。男女共同参画社会が謳われ、女性の総合職が脚光を浴び、キャリアウーマンという言葉がもてはやされました。編集者見習いとして働いていた西田さんは「出版は東京だ」という想いから、何とか東京へ出ようと画策。やがて小さな出版社へ入社が叶い、ご両親の制止を振り切って上京しました。
しかし現実はそう甘くはありませんでした。出す企画はことごとく通らず、自分の幅を拡げようにもその時間がありません。こんなはずじゃなかった。激務で心をすり減らし、病みかけて玉砕。「自分程度の夢や力の持ち主は掃いて捨てるほどいるんだ」と思い知らされました。京都が恋しくなり、逃げるように帰洛、実家に引きこもりました。
しばらくして心の傷が癒えてくると、俯瞰して考えることができるように。「今はやりたいことは無いけれど、できることをしなければ」と大阪の医学薬学専門の出版社に就職します。しかし、そこにも疑問が生まれるように。当時は薬害エイズ問題、ハンセン病の国家賠償請求訴訟判決など、医療業界の問題が取り沙汰されていました。社会の歪みを感じながら仕事と割り切るべきだと思いつつ、それでも多々ある理不尽なことや矛盾を前にして、組織に合わない自分を痛感します。
退社後フリーランスとなり、縁あって京都の放送局へ。やがて広報・編成の部署から制作部へ移り、構成作家として本格的に活動を始めます。いつの間にか、また「やりたいこと」が目の前に見えるようになっていました。
●知ってしまったら、ほっとけない
放送局では、年間200本以上のラジオのミニドラマの脚本を3年間書き続けました。それほど毎日書き続けても、ネタに困ることはありませんでした。西田さんにはひとつの新聞記事を見てもその裏側やその先が見えるようなのです。細やかな感受性と想像力、それを客観的に見ることのできる冷静さは、さまざまなストーリーを生み出しました。
ネタ探しも含め、ラジオの仕事を通じて多種多様な情報にアクセスするようになったことが本来の好奇心に火をつけました。そう、彼女は知らないことを無いことにはしたくない、という貪欲なひとなのです。「世のなかにはいろんなひとが大変なことに向かって何とかしようと努力している。知ってしまったら力になりたい。知ったからには責任がある」。関わったひとたちのことがずっと気にかかります。「できることなら助けになりたい、でもできることは限られる。ならば、知らせること・伝えることの役目に徹したらいい。それが自分のお役目なのかもしれない」。その答えに行き着きました。
●転機となった311
そんな彼女に大きな転機が訪れました。2011年3月11日東日本大震災。当時2人目の育休中だった西田さんは、大きなショックを受けます。
「メディアの末席に連なっていながら、原発の安全神話を信じる一人だったんです。チェルノブイリを超えるクラスの大事故が、まさか日本で起きるなんて」。4月、娘の保育園入園を待って2度目の社会復帰を果たし、バリバリ仕事しようと思っていたところが、毎日が曇り空のように感じられる日々が始まりました。この国で本当に子育てしていけるのだろうか、そんな心配が頭をもたげ、同じように不安を抱える多くの母たちとつながるようになります。
「元々裏方の仕事が性に合っていたんですが、こんな非常時にそんなことを言っている場合ではない、と。そこから“三つのつ”を意識するようになりました」。
“三つのつ”とは、「伝える・つなぐ・つくる」。伝えることにより、ひとはつながり、そしてひとがつながると、新たな何かをつくり出せるようになる。これが彼女のミッションとなりました。地元ママだけでなく、京都に避難移住してきた東日本の母たちともつながり、共鳴・共感し、新たな世界観を共有しました。
そこから、ママたちが安心して買い物できて、不安な気持ちを吐露できるステーションのようなお店をと、ママ友と自然食糧品店の共同経営に乗り出しました。
●「知る」から「共に走る」へ-多様な立場や職歴がもたらした進化と深化
自然食糧品店をたたんだあと、西田さんは縁あってまちづくり等に取り組むNPOに関わります。そこで、京都府全域を回り、団体さんに代わってプロモーションを行う仕事に従事しました。業務を通じて、せっかくいいものをつくりながら、発信力や販路を持たないひとたちをサポート。頑張る人々の努力を伝え、製品の優れた点をアピールしました。その後、京都府の協働コーディネーターとして行政の仕組みを民間で活用できるよう、両者をつなぐべく奔走しました。
また、結婚や子育てを経て社会のさまざまな問題や矛盾、個人ではどうしようもないジレンマがあることも多数経験しました。一人で問題を抱える孤独や恐怖も知っています。加えて行政と民間の理屈の違いやNPOのありようも肌で感じてきたからこそ、必要なひとたちに必要なサポートができるのだと思います。そこにいてくれるだけで頼りになる、西田さんはそんな気にさせてくれるひとです。
そうした力を知っていた(公財)信頼資本財団からPOサポーターを依頼された彼女は、今回の休眠預金事業で伴走支援するマイママ・セラピーさんを、「とてもしっかりした活動を積み重ねてきた認定NPO法人さんなので、私の力はほとんど不要」と言いながらも、「団体の苦手な部分のフォローや、ちょっと違った視点から見えることをさりげなくアドバイスするなどして、これからも応援していきたい」と語ります。
●さいごに-触媒というあり方
「私は何者でもないから、何者にもなりうるんじゃないかと思っています。そして、何者でもないからこそ、領域や違いを超えて、自由に越境できるんじゃないか、と。そうすることで、触媒として、あっちとこっちをつなぐことができる。つながることにより、思いもかけない拡がりや深みが生まれる。1+1が×10や×100になるワクワクを知っているから、少々厚かましいひとだと思われても平気なんです。アプローチするとしないでは、0か100かの違いが生まれるなら、絶対するでしょう?」と笑う西田さん。
今回の休眠預金事業においても、その強みが発揮されているようです。そして、本事業が終わってからも、培われたつながりはまた新たな世界を見せてくれるかもしれません。
PROFILE 西田 奈都代(NISHIDA Natsuyo)
大学卒業後、京都・東京・大阪の出版社勤務を経てフリーランスに。ライター、構成作家として活動。京都の放送局にて広報誌の編集、番組構成、ラジオドラマやラジオドキュメンタリーの脚本などを手掛ける。
番組のための情報収集のなかで得た知識や情報、人脈を活かし行政やNPOの活動にも参画。民間と行政の橋渡しや情報発信、プロモーションに尽力。現在は構成作家、ライター業の傍ら、食をテコとしたまちづくりを考え、生産者、子ども、高齢者等あらゆる人々をつなぐプラットホームである「食と農の未来会議(Food Policy Council;FPC)・京都」事務局長として、今後政策提言できる組織に育てることをミッションとしている。