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<卒塾生同士だから聞ける・話せるインタビュー>

岡 崇嗣さん:A-KIND塾5期(2019年度)卒塾生

インタビュアー:A-KIND塾3期卒塾生 矢端信也さん

 

平飼いで養鶏を行い、卵を生産する株式会社WABISUKE代表取締役岡崇嗣さん(A-KIND塾5期生)。手間のかかる平飼い養鶏にこだわるのには、どういった背景があるのでしょうか。半生を伺いました。

■仕事への意欲と運命の遅刻

私は会社経営には高校生くらいから、母の影響で関心がありました。母からは仕事が楽しいものだというのを、学んだような気がします。すごく働く人だったんですよ。うち母子家庭で、家事は祖母と叔母に助けてもらって、母は朝7時前に家を出て、帰宅するのが深夜になる日もありました。母はメーカーに勤めていて、50歳くらいで役員になったと思います。当時としては女性の役員は珍しかったのではないでしょうか。たたき上げでガンガン仕事していました。負けん気も強く、とにかく仕事を楽しそうにやってたんですよね。その後ろ姿を見ているから、仕事は楽しいものだと刷り込まれました。朝から晩まで働くなんて楽しくないとできないじゃないですか。母は今でも仕事してますけど、やっぱり楽しそうに見えますね。

 

ーお母さんの背中を見て、仕事をポジティブに捉えていた岡さん。そんな岡さんの人生に大きな転機が訪れます。

 

大学生の時に、京都学生祭典という京都府や京都市も共催している年間予算が1億円くらいの大きな組織に携わっていました。副委員長のような立場も務めていて、すごく楽しく熱中しました。ちょうど2010年卒でリーマンショック直後が就活の年でした。京都学生祭典の引継ぎが終わるのが大学3年生の冬頃で、就活には出遅れてしまいました。学生時代の経験は、同級生よりも大きいという自負と、京都学生祭典の燃え尽き症候群の狭間で就活が始まりました。最終面接までいった企業もいくつかあったんですけど、ことごとく最終面接で落ちたんです。生意気だったんだと思います。

そんな中、ある会計コンサルから内々定のようなお約束をいただきました。その時点で他に可能性のあった企業をすべてお断りしたんです。そして最終面接という名ばかりの、その企業の会長と社長と内々定者全員での食事会がありました。その席に電車の遅延で1時間ほど遅刻してしまって、私が到着した時には他の参加者はすでにご飯を食べ終えていた。私はその遅刻した気まずい雰囲気の中で、食べながら会長や社長に受け答えしなければいけなくて、全く返答ができなかった。後日、連絡があり、最後の最後で不採用となりました。

翌日、電車の遅延の原因をニュースで見ました。なんと私が乗っていた鉄道会社の職員さんが当日、出勤に遅れてしまったそうで、遅刻になるのが嫌で踏切の非常停止ボタンを押したという事件でした。

 

ー就活の最終局面で、人生のレールから外れるような予想外の出来事が起こった岡さん。しかしその後にはもっと予想外の未来が待っていました。

 

■メキシコと養鶏との出会い

泣く泣く就職留年かなと思っていました。その頃、母が務めていた会社がメキシコに市場開拓を目論んでいました。母の会社の社長としては、同僚の生まれた時から抱っこしていたような子どもが、どうやら就職も決まらずふらふらしているぞと。それならメキシコに留学して来いと。

その時点では就職を前提というわけではなかったですが、可能性としてはあったと思います。私としては就活に失敗して投げやりになってたのもあり、メキシコに興味があったわけでもないのですが、その留学の話に乗ったんですね。

母の勤めている会社は、大きな国内シェアのある卵の選別包装機械のメーカーです。当時、メキシコは一人当たりの卵の消費量が360個。全人口1億人が毎日ほぼ1個は卵を食べる、世界でもっとも卵の消費量が多い国でした。だから留学の研究計画も鶏卵についてでした。

 

ー思いがけない人生のいたずらから出会った養鶏とメキシコ留学。ここでの体験が岡さんの人生を大きく変えていくことになります。

 

ただ、留学や研究と言っても、スペイン語です。渡航前の半年間、必死に猛勉強して、とにかく単語を詰め込みました。当時、世界一の大富豪はカルロス・スリムというメキシコ人だったんです。日本だったら独禁法にひっかかりそうなものですが、例えて言うならばNTTとauの代表が同じ人だったりする。そうかと思えば、田舎の駅前では子どもが裸足で1個5円のガムを売っている。そこでこれはおかしいぞと問題意識が芽生えはじめそこから国際協力に興味が湧きました。

当時、自分の中にまだ変な大手志向のような意識が残っていました。ずっと野球をしてきて体育会系で、在メキシコ日本人会の方々にも可愛いがってもらえたので、大手商社の駐在の方からの推薦で就職できたらなとか期待していました。色々と動いてはみたものの、あっという間に1年が過ぎて、帰国しました。

 

ーメキシコ留学で貧富の差を目の当たりにした岡さん。自分の中の大手志向意識など、何か煮え切らないものを抱えて帰国。その感覚は帰国後も続きます。

 

もやもやしていて。だけどコレというものは見つからず。大学も丸2年間休学して帰国したのが夏。ここから翌年4月以降の就職のために準備するのも違和感がある。母の会社への就職にも違和感がある。なにかないかと探している中で、養鶏で村おこしをしているJICAの記事を見つけました。プロジェクト自体はうまくいったんだけど、凶弾に倒れてしまった方がいるというストーリーでした。それでコレだ!と。

■養鶏での国際協力、そして平飼いとの出会い

そこから会う人会う人に、「オレは海外で養鶏場をやることに決めた!」と宣言しました。その頃、大学の卒業旅行で1か月間、中米7か国をバックパックでぐるっと回ったんですね。養鶏で村おこしすると決めてるから、JICAの方や青年海外協力隊の方にも各地で会わせてもらった。そしたら意外にも、本当に現地の人たちのために燃えている人には、なかなか出会えなかった。援助漬けの現場も見てしまって。そこから現地の人が、やりがいのある仕事を持つということが一番、大事なんじゃないかと思いました。それで余計、養鶏が価値あるものに思えました。帰国して再度、「オレはエルサルバドルで養鶏場をやることに決めた!」と宣言しました。そしたら全員が大反対。養鶏場の仕事ってどんなものか知ってるのかと。母の会社は養鶏業界の隅々まで知っている。なにしろお客さんが養鶏場ですから。

 

ー海外で養鶏場を開くと心に火がついた岡さん。国際協力と養鶏場経営というふたつの理想と現実の間に挟まれつつも一歩を踏み出します。

 

まずは日本の養鶏場で経験を積むということになって、京都の養鶏場を紹介してもらいました。半年間でしたが、実はそこがメキシコより、どこよりも勉強になりました。その頃に養鶏に関する資料も一通り読みました。産卵率の管理方法、日照管理の考え方など現代の養鶏技術を学びました。なにより鶏のケージ飼いに初めて出会った。それもウィンドウレス(窓なし)のケージ飼いです。普通の人は一生、経験しない施設がそこにはありました。もちろん徹底管理の施設もあるとは思います。でも私が働いていたところは埃だらけで、常に大型の換気扇がゴーっという大音量で回っている。鶏に近づいたら小さなケージの中で逃げる。逃げてもすぐ檻なんで、ケージに羽が当たってボロボロ。ホラーゲームの中みたいな環境です。カルチャーショックでした。

 

ー養鶏場で知識と経験を得ながらも、鶏のウィンドウレスのケージ飼いという更なる違和感に出会った岡さん。点と点が結び付き「平飼い」というご自身の人生をかけたテーマを見つけることになります。

 

それでも海外で養鶏をやると決めたから半年間の研修期間をがんばりました。2012年のことです。そこで、その感じた疑問をネットで調べていたら、ちょうどヨーロッパで養鶏、養豚、畜産全てのケージ飼いが段階的に禁止になった。2025年に完全禁止の指針が出されたことを知りました。そこでまた、なぜかは分からないけどコレだと思いました。でもヨーロッパが家畜福祉と言って、ケージ飼いが禁止となるのに、日本はほとんど反応していなかった。

 

■平飼いビジネスの実現という使命

自分の途上国支援の気持ちは、本気でやっている人に比べたら小さいと思ったんです。だけど平飼いは、人生をかけて実現するテーマだと思った。使命感を感じた。その当時、日本では市場流通できる規模で平飼い卵を実現している人は、ほとんどいませんでした。

今、周りを見渡してみると仲間はいっぱいいますが、当時は普及させていこうという動きは見つからなかった。鶏鳴新聞という養鶏の専門誌があります。当時は、そこにアニマルウェルフェアなんて単語は一つもなかった。でも今、内容の3割は家畜福祉です。日本の畜産の現状が世界の目に留まりつつある。仕事にして8年目です。

そして次に平飼いの養鶏場に入りました。そこは昔ながらの牧歌的な養鶏場で、なぜ平飼いなのかと聞くと、その方がおいしいというわけです。実は、そこは私の認識とは差があって、そうしたエビデンスは正直なところまだ見たことありません。平飼い卵とケージ飼い卵の食味をブラインドテストして、分かる人はいないのではないかと思います。

その平飼いの養鶏場の鶏舎を一部、間借りする形で独立して自分の鶏200羽を飼い始めました。当初は食べていけないので、スーパーの深夜アルバイトで月10万円くらいは稼ぎつつ。そこから徐々にお客さんを増やして、29歳でようやく養鶏で食べられるようになりました。2017年3月に地元の宇治で廃業した養鶏場があり、移転することにしました。移転については、なかなか難しい状況もありましたが、今では勉強になったと思っています。

ーアルバイトとのダブルワークを積み重ね、ついに平飼い養鶏場の鶏舎を自分で持つことになった岡さん。そのスタートは試行錯誤の連続でしたが、ビジネスの転機が訪れます。

 

宇治に移転したときに法人化したことで、社員さんを雇い、社会保険を支払い、固定費が増えて驚きました。移転の際に借入れをしているので返済があり、赤字の時期もありました。ただ2019年春に京都にある世界的なホテルが、定期購入してくれることになりました。海外の有名ホテルチェーンは、全世界で統一した食材のガイドラインがあります。そのホテルチェーンでは、鶏卵は平飼いのものが強く推奨されています。同時期から他の引合いも増えました。ただ卵を増産しようと思っても、産卵は早くて半年後。徐々に生産量も増やすことができて、ようやく需要に供給が追い付きました。

 

■A-KIND塾との出会い

ー時代が背中を押していると感じ始め、やってきたことが報われつつあったタイミングでのA-KIND塾への参加はどんなきっかけがあったのでしょうか。

 

A-KIND塾は5期生で2019年4月から参加しました。主な取引先で信用している人が、「とにかくめちゃくちゃ良いから」と勧めてくれてので、受けてみようかなと。失礼ながら、信頼資本財団も、アミタさんも、塾長の熊野さんも、ぼんやりとしか知らないままに応募しました。4回目の講義で、アミタ創業者が熊野さんで、アミタさんの事業はどんなことなのかが分かったんです。

自分のことを社会起業家とは全く思っていません。ただのビジネスマンだと自覚しています。ビジネスの仕組みを使って、家畜福祉を広めたい。逆に家畜福祉を社会起業にしたら、普及のスピードが落ちてしまうのではないかと心配です。日本ではヨーロッパとは違う形の普及が必要だとも思っています。

ー社会起業家ではなくビジネスマンだとご自身を説明する岡さん。そこには社会課題解決へのスピードやインパクトはどのような立場から取り組めば、早く大きいのかという合理的な視点がありました。

 

基本的には、私は社会課題を解決する事業も、株式会社で十分できると思っています。私の卵を消費者の方が手に取ってもらえるのは、その卵に値打ちを感じてもらっているから。義理ではありません。何らかの付加価値を感じてもらえるから購買に繋がる。それがビジネスですよね。社会課題の解決も問題意識が芽生えた時点で、なんとかそれをビジネスにする、商品にする、サービスにする工夫と努力が必要だと思います。その工夫がないと普及しない、社会に認められないのではないかと思っています。

A-KIND塾では最後にフリーマーケットに参加して、自分たちの商品をつくり、お金に換えるプログラムがありました。あれが良かった。あのプログラムで、本気で事業としての持続可能性を学べる場だと感じました。儲けを出さなければいけないと、本気で向き合いました。結果的に、班として黒字で終わらせることができました。班の商品は、端切れ布を集めて、中に玄米を入れた玄米カイロです。本気で向き合ったことで、社会課題をお金に換えるということの可能性を実感しました。社会課題を商品化することは、難しいけどできるじゃないかと学びました。一方で、印象に残っているのは犯罪やDVの被害に遭われた女性の施設の運営の話です。単なるビジネスでは解決できない課題もありそうだなと思いました。

 

ーA-KIND塾では、社会課題の解決について、多様な見え方を持つきっかけがあったようです。A-KIND塾での最後のフリーマーケットで社会課題の商品化を体験として学ばれた岡さん。そんな岡さんが考える信頼関係とはどんなものなのでしょう。

 

私は、熱くなるタイプで、異業種交流会に参加していたのですが、のべ250人をだれかに紹介しました。京都学生祭典でも異業種交流会でも、のめりこんでしまったことには反省もあります。ビジネスの上での紹介って、責任が伴う。自分にもきちんと利がないとフォローも甘くなるし、難しい。

例えば、地元の小学校、中学校からの仲間が困っていたら無償で助けたい。そんな関係性が理想かなと思います。大人になってから、あの時と同じくらいの密度と長さの時間の共有って、いっしょに働く以外、なかなか難しい。そういう意味では、A-KIND塾で知り合ったバザールカフェという非営利のカフェに、規格外の卵を使ってもらっているのは一つの成果かなと思います。

実はコロナ禍になってすぐ熊野さんから、メッセージをいただきました。気にかけてもらっているんだと嬉しかったです。熊野さんは膨大な知識と、私の想像を超えるようなアイディアをお持ちです。それだけ思考してきた時間も長いはずで、そこから出てくるちょっとした一言が塾生にとっては、起爆剤になることもあると思います。

ーA-KIND塾で出会った熊野塾長との関係はその後も続いていると語る岡さん。新しい事業も構想しています。

 

■新しいビジネスの可能性

平飼いの次の段階として、フリーレンジ(放し飼い)の養鶏ができないかと考えていた時期がありました。ただ現実的に考えて、商売にならないと結論を出しかけていた。例えば鶏100羽をどこかの山で放し飼いにしても、鶏には帰巣本能があるから採卵はできるかもしれない。ただその他の手間やリスクが大きすぎる。だけどそのとき熊野さんから販管費を自分たちだけで持とうとするから大変なんだと、その仕事がやりたいだれかと組んでやればできるはずだと言ってもらいました。それで可能性がぐっと広がりました。これならできそうというプランと提携先が見つかりそうで、実際に動き出しています。あの一言は大きかったです。

 

 

■インタビューをした矢端より■

就職活動でつまずいたことからメキシコに渡り、貧富の格差や国際協力の現実を目の当たりにした岡さん。その道のりは決して平たんではなかったけれども、すべてが意図されていたかのように見えるほどたくましく歩んでこられたと感じました。岡さんは平飼い養鶏の普及をビジネスで解決しようと挑戦を続けています。もともと持たれている熱い気持ちに加えて、同じ未来を想像し助け合える仲間とのA-KIND塾での出会いが、岡さんの可能性を広げています。

PROFILE 岡 崇嗣(OKA Takashi)

京都府城陽市出身。大学在学中に養鶏場経営を志すも、養鶏場研修で、ウィンドウレス鶏舎にカルチャーショックを受け、当時すでにEUでは主流であった「平飼い」を日本で普及させることを決意。26歳で個人事業としての平飼いたまご専用農場である、WABISUKEを開業。その後、京都府宇治市にて、株式会社WABISUKEを2017年に設立。現在に至る。

(公財)信頼資本財団A-KIND塾5期卒塾。

 

 

(2020年6月インタビュー)