常識
日常が「楽しい」社会は、素晴らしい社会なのだろうか?
その楽しさが、欲望を増幅する興奮を意味するのであれば、楽しさの充満は欲望の充満になり、欲望を利用して多数派になろううとする「民主主義社会」を助長することになり、不必要に欲望を喚起し、大量消費で経済を動かす経済大国と言う名の欲望大国を作ってしまうことになる。
「効率的でない」という言葉が正義を持つ社会は、良い社会なのだろうか?
誰しもが経験する「老い」、次世代をつなぐために選択する人が欠かせない「出産」や「育児」、 いつでも可能性がある「障がい」や「病気」などに向かい合っている人を効率的でないと判断し、人間に品質管理を導入して、コスト扱いにする工業社会は、人間の尊厳を傷め続けることになる。
真の楽しさとは、信頼出来る仲間と、人生の節目を認め合いながら時間を使うことにある。
それが、食料や食事作り、家作り、衣作り、機械やソフト、メディア作りと言う社会作りに関係する時間なら、その影響が周辺や社会にも影響を及ぼす意義を感じ、もっと楽しくなっていく。
そのような時間の使い方の本質では、ライフとワークは分けられないものであるということになる。
人生という限られた時間で欲望を煽る「楽しさ」や効率を画一化する常識をもっと疑ってみても良い。
私たちが「常識」と考えていることについてしっかり向き合うべき時が来ている。
常識と思いこんでいることの多くがここ100年程で作られたものだ。
幸福になるために経済は大事だが、経済的に豊かになれば幸福になる訳でない。
手段を目的にしていることが常識になっている社会には気をつけなければならない。
混迷と混乱で不透明な時代になっている現代の象徴であるかのように、2011年の3月11日に経験ある人々が「想定外である」という言葉を繰り返した。
つまり、常識が崩れ、学者も政治家も行政官も経済人も誰も答えを持っていない事を白状してしまった。
我々は、新しい常識を作る時代に貴重な人生を刻んでいる。
しかし、多くの大人が、強さを誇り、賢さを誇り、安心を求めると言う常識にとらわれているのではないか。
本当に優しい人は、強い人。 強さを誇る人は、臆病な人。
謙虚な人は、賢い人。賢さを誇る人は、臆病な人。
不安を解決出来る人は、安心を確保する人。安心を求める人は、臆病な人。
臆病になって守る人生を送ることで、多くの生命は豊かになるだろうか。
ゆめゆめ「常識」に依存することなかれ!