シンライノコトバ皆さまにいま伝えたい、信頼資本財団からのメッセージ

2019.05.29

Empathy community people

東京を中心とした首都圏が近代文明中心地の一つであることは、世界が認識しているだろう。

 

この「シンライノコトバ」で、その首都圏にてほぼ毎日のように起きている鉄道人身事故に触れようとしていた昨日、5月28日、神奈川県川崎市でスクールバスを待つ小学生や見送りの親御さん計19人が傷つけられ、うち2人の方が亡くなったとの報道が流れてきた。
亡くなられた方の死を悼み、負傷された方の早期回復を祈り、心に深い傷を負った周囲の方々のことを思う日になった。

 

そもそもは、今回の冒頭、「首都圏各線の各駅や車内では、ほぼ毎日のように、人身事故のアナウンスが流れているが、人々はそのメッセージに慣れきっているせいか、全く反応を示していないように見える」と書くつもりだった。

 

東京に住んできた身としては、そこにも多くの人情や善意が存在していることはよく知っている。
利便さだけを追求した結果の異常な地域、冷淡さが日常と首都圏を決めつけるつもりは全く無い。
しかし、近代文明の中心地に、孤立した人々が溢れ、その一つの象徴のように、鉄道人身事故が頻発、その話を聞く側に慣れとでもいった状態があることは実感している。

 

日本で近代化が始まった明治維新後、多くが農民だった日本人は、近代化を謳歌する工業都市や商業都市に、ある者は憧れを抱き、ある者は生活のために已む無く働きに出た。

そのまま都市に居着いた人も多かったが、ほとんどの都市生活者が全てを失った。

しかし、戦争から戻ったり、戦争時代に子どもだった人たちが、戦後復興期の中、更に都市圏に移住した。

1970〜80年代ぐらいまでは、子を都会に送り出して地域に残った親たちも、都市で家やマンションを購入し、「現代的に」暮らす子や孫を見て安心し、自らは、まだ残る地域コミュニティに守られ、幸せを感じていたかもしれない。

その後も「経済発展」を続ける日本の中にあって、東京を筆頭にした大都市は、人々を獲得し続けた。

 

しかし、1990年代、バブルが崩壊し、大幅な経済成長は限界を迎えた。

 

それから30年近くが過ぎた。
都会で安定していた親たちは年をとり、その子どもたち、孫たち、また新たに大都市に吸い寄せられた人たちの中には、相変わらず人口増大・経済成長を前提にした社会システム下、高齢者の一人暮らし、介護や子育てに疲れる人、働く気持ちになれない人、家から出る気持ちになれない人、学校が合わない人、給料は一向に増えないが家賃も下がらず給料の多くを住居費に使い果たす日々からいつまでも逃れられない人等がますます多く見られるようになっている。

 

仕事で所属する組織と個の関係が最大限尊重される中、相互扶助の地域コミュニティを熟成させるシステムが無く、更に元々は金融行為に対して、そのうちに広く社会における行動全般の「規範」にまでなった「自己責任」が押し付けられる中、孤立し、無力感や時には怒りを蓄えながらポツリと生きている人が、あちこちに存在している国になっている。

一方で、都会に子どもたちを送り出し続けている地域の親たちが住むコミュニティも、人口減や「自己責任論」の蔓延から、無くなったり壊れたりしているところが出ている、そんな国でもある。

 

結局のところ、かつてはこの国を明るい未来に導いているかに見えた近代文明が、今や、多くの人を苦しめる孤独の増幅装置になっているということだ。

 

「近代文明が」と書いたが、現在日々の暮らしを通してそれを維持しているのは我々なのだから、つまりは、我々が増幅装置の犠牲者であり、加害者でもあるという自覚を忘れるべきではないだろう。

 

この理不尽が極まった状況からの解放に向けた挑戦は、あらゆる所から出ている。

しかし、次のシステムに向けた予兆がかなり前から出ているにも関わらず、社会全体がその方向に変わっていくように感じられないのは何故だろうか。

 

世界の歴史を大きく捉えると、狩猟採集から村落共同体を経て、神政共同体へ、神託を受けた王が国家を治める王政国家へと変化している。

そして、キリスト教王政国家のシステムが腐敗をしていると感じた人々が命を賭して宗教改革に挑んだ。

「神の前に万人は平等である」との提唱に共感し、神の下に平等である「個人」という概念を是とし、「個人」が繋がり合い、神託を受けているとしてきた王政を覆し、国民国家にシフトした。

国民国家は、産業革命を推進し、工業社会を拡大し、「近代化」を進めていく。
そのシステムは宗教の枠を超えて多くの国々に広まり、自然と人間を経費にし、そのうちに地球環境の劣化と望まぬ孤独を発生させた。

一昨年、市民革命の地イギリスで、孤独担当大臣が生まれたのはその象徴だろう。

 

今現れている予兆は、機能不全を起こしている国民国家から共同体社会へのシフトのためのものだ。単純な村落共同体ではなく、複層化した共感共同体へシフトする予兆である。

 

しかし、その予兆が未だ形にならないのは、市民革命からの民主主義、そして労働の結果を分配するという資本主義を支えた宗教改革派の発端にはあった「神」にあたる倫理観が消え失せ、「グローバル金融社会」と呼ばれる世界の中で、連帯感を嫌う欲望に任せた神なき個人主義に変容し、戦後復興による国民の幸福という独自の使命感に引き続き近代化を載せてきた日本人も、それにいつしか倣っていったからだろう。

 

共感で連帯出来る共同体の人々「共民 (Empathy community people)」とでも呼ぶべき概念の成立が、自然と人間を経費にした現代社会を変える連帯力の醸成には必要だと思う。

 

神なき個人主義は利己主義に過ぎないということを認識できていなかったかに見える欧米の人々は、かつて「神の下に平等な個人」を「市民」とし、市民の概念を広げた人々でもある。

従って、そもそも国家としてキリスト教文化を共有していない国々で、「市民」の概念を同様に理解・実践することは難しい。

そうではなく、人類共通の経験である村落共同体の意識をもって、共民意識を持ち合う方が良いのではないかと考えている。

生活習慣を変える循環社会システムを共同体の単位で構築し、その共同体同士をネットワーク化して、共民意識を人類の良心の増幅とし、行動動機を大量消費の最大幸福から大量共感の最大幸福へと移行させていく。

 

そうでなければ、自然と人間を経費にする工業社会の基盤が前提になる利己主義的自由がはびこり、近代システム依存症になり、制約下の地球で共生するための本当の個人主義を形成することも出来ない。

本当の個人主義とは、自分が生きていく自立のためには、豊かな他者や自然との関係性が欠かせないという視点を持つものである。

本当の個人主義である人々が繋がり、次のシステムを目指す。

 

こうした大きなビジョンを持ちながら、新たな歴史に向かって更に歩みを進めたい。

2019年 5月 

信頼資本財団 理事長 熊野英介