インタビュー

爆発的に生きる【前編】

<A-KIND塾5期生>
Impact Hub Kyoto/株式会社taliki/U35-kyoto
原田岳 さん
はじめに
はじめに

矢端信也(以下、矢) 今回はインタビュイーの職場でもあるImpact Hub Kyotoでのインタビューとなります。まずは、原田さんと読者に自己紹介からさせてください。ここ数回インタビュアーを務めているぼくはA-KIND塾3期生で、塾現役生の頃はフェアトレード商品を扱う企業で卸営業として働いていました。昨年、そちらを退職して自営業となり、今はオーガニック系スーパーの店長と信頼資本財団のパートタイムジョブを掛け持ちしています。転職にもA-KIND塾での出会いが大きく関わっています。

 財団は設立から12年目、東京から京都に越してきて8 年目になります。社会関係資本が豊かになる社会を目指し、共感融資や共感助成、A-KIND塾、未来設計実践塾などの事業を通してこれまでたくさんの社会事業家との繋がりをつくってきました。このインタビュー、現在は、卒塾生を中心に、お仕事や財団への想いをお聞きしているシーズンです。先ほど、このビルに到着して驚きました。A-KIND塾1期生の宮嶋建人さん(株式会社メディアインパクト)、4期生の木下京介さん(グローカル人材開発センター)も同じフロアにオフィスを構えているのですね。

 

原田岳(以下、原) 宮嶋さんもA-KIND塾の卒塾生なんですね。知らなかった。

 

 そうなんです。お二人とも偶然ばったりお会いしたのに、オフィスを案内してくれました。まだコミュニティとは言えないかもしれない繋がりですが、顔が分かり、名前が分かり、得意なことが分かると、なにか困りごとがあったときに、互いに安心して頼れるような関係性が育っていることを実感しました。こうした財団を通じた関係性が、どんなところに発展しているのかも、この連続したインタビューで共有していきたいと思っていることのひとつです。
 原田さんを指名してくれたのは、同じくA-KIND塾5期生で、前々回インタビューをした大槻さんです。

 

 指名してくれるなら大槻さんだと思いました。大槻さんとは同じグループで、お互い不思議な魅力を感じあっていたと思います。

 

 ぼくは原田さんと挨拶はしたことがありましたが、実はどんなお仕事をされているのかよく知りませんでした。そこで原田さんが公開しているnoteを全て読んできました。

 

 量多いですよね。ありがとうございます。

 

 株式会社taliki代表の中村多伽さんがA-KIND塾6期生。彼女自身のキャラクターもやっていることも魅力的ですね。原田さんはそのtalikiに就職されたんですよね?

 

 はい。2020年4月に第一号社員として入社しました。

 

 talikiは社会課題を解決する若者の起業支援などをされている会社ですが、ぜひ、そこに至るまでの生い立ちも含めて教えてください。

 

 めっちゃ長くなりますよ。

 

 楽しみです。原田さんの学生時代もユニークそうですね。

筑豊に生まれ育って

 ぼくは1994年生まれで、今年26歳です。A-KIND塾同期の中でも一番若かったのかな。第1回の講義、熊野さんのお話はめっちゃヤバかった。あそこまでロジカルに、色んな歴史を遡って、未来に繋げる話をできる人が存在すると思っていませんでした。自分も感覚的には「こんな未来が来たらいいな」くらいは考えていたけど言語化は全くできていなかったので、スゴイと思いました。この話の価値を分かってもらえる人が、もっともっと世の中にいるだろうと思いました。その後自分たちの「事業の壁」を発表する講義の回があり、ケーススタディとして選ばれたのがぼくと大槻さんでした。同じグループで過ごしていて気づいたことですが、大槻さんとは感覚が似ていると思います。人より変なことをやっている感覚も似ている。安定的に事業を伸ばしてくのではなく、どう社会を本気で変えるための努力をするかというところも似ていると感じています。本人がどう思っているかはわかりませんが。そんな方も隣にいてくれたこともあり、ぼくはA-KIND塾に全力で学びに行っていました。

 

 社会を変えたいという想いはいつからですか?福岡生まれで、高校生まで福岡ですよね。高校生のときには、すでに変えなきゃいけないと思っていましたか?

 

 最初のきっかけは上京して東京の大学に入ってからです。地元は筑豊という田舎で、元々は炭鉱の街です。飯はうまいけど、気性が荒い。ぼくは小さい頃、喘息持ちでいわゆる虚弱体質でした。月1回は通院して、薬も毎日飲んでいた。父親から、自由にやってもいいけど筋だけは通せと育てられたので、曲がったことが嫌いでした。背は小さいけど生意気で、悪ガキ大将が筋通ってないことしてたら、ぶつかってシバかれるみたいな。中学校はサッカーをしていて、高校で空手を始めました。かなり鍛えていて、あだ名がジャック・ハンマーと呼ばれたこともありました。

 

 漫画『バキ』の主人公・範馬刃牙のお兄ちゃんですね。それはすごい。ムキムキですね。

 

 そうです。とにかく強くなりたかった。将来は格闘家を目指していました。高校の同級生の進路は就職か専門学校でしたが、手に取った少女漫画で描かれていたキャンパスライフにも憧れて、勉強してみようかなと思いたちました。それで教師に「格闘家か大学かどちらがいいと思いますか?」と相談したら、「あなたは頭が悪いから就職しなさい」と言われて、就職専門コースに振り分けられました。受験シーズンにもう一度、教師に相談したら「あんたゼッタイどこにも受からんちゃ、なにをなまけたこと言いよんと」と言われて、すごくムカついて。勉強を始めたのが、高校3年生の夏です。

 

 反骨心を刺激されたわけですね。筑豊弁がいいですね。

 

 なにせセンター試験の3か月前だったんで、志望校には落ちてしまって。勉強をやり直したいと思って、親に頭下げて、予備校に行かせてもらいました。ただ予備校で自習室にこもって勉強するのが苦手で、近くのカフェ&バーで勉強していたら、周りの大人たちから社会勉強を教育されるわけです。そこで本当に東京や海外が存在するんだと知ることになりました。

 

 旺盛な好奇心を刺激され、視野がバーンと広がった。

 

 予備校に入る時点で、親からは東京の大学で下宿するなんて、お金がかかるしダメと言われていました。でもそのカフェ&バーで出会った憧れのジャズボーカリストに「東京行ってみろよ」と言われて、もうその気ですよ。なんとか親も説得して東京の大学にも受かりました。

筑豊に生まれ育って
大都会・東京

 それで憧れの東京はいかがでしたか?

 

 東京って人・物・金・情報なんでも揃ってる。なんでもできる、と思いました。でも大学で東京に生まれ育った同級生と出会ったら、その圧倒的な地方との格差を活かせてないなと感じたんですね。最初は楽しかったけど、せっかく東京にいるのに、何してるんだろうと自問自答した。東京にいても活躍している人とそうじゃない人がいることを目の当たりにして、東京の中の格差にも気がついた。自分の田舎コンプレックスにも気づきました。地域格差、教育格差から社会の悪いところに気づいて、それなら社会を変えてやろうと思いました。

 

 なるほど。東京という大都会が、社会の不条理に目を向けさせた。

 

 夜はバーテンダーをやっていて、丸の内とか渋谷とか出入りました。20歳の時に雇われ店長を任されることになり、大学にはほとんど行かなくなりました。バーの営業が楽しかったんです。そのバーで、20代で起業している人やフリーランスの人に出会うことができたことはすごく刺激的でした。

 

 学び場がキャンパスからバーに移り変わった。

メキシコでの格闘

 そのバーのオーナーがメキシコの事業を立ち上げて、そちらに誘われました。貪欲に、なんでも経験してやろうと思っていたので、貯金全額を使って片道航空券を買い、メキシコに行きました。

 

 どんな事業だったのですか?

 

 メキシコのライフスタイルや治安情報などあらゆる情報をメキシコ在住の日本人に届けるウェブメディアです。社長、副社長、ぼくの3人でしたが、ぼくの到着と同時に副社長が帰国。その当時で社長も27歳くらい。社長はメキシコで日本食レストラン兼ホステルを新たに立ち上げて、そっちは売上も絶好調。ぼくはメキシコシティで、1日1記事投稿してという生活になりました。

 

 スペイン語はできたのですか?その仕事は楽しかった?

 

 スペイン語は全くできませんでした。でも取材もメキシコ在住の日本人企業が相手なので、語学はそんなに問題はありませんでした。正直、仕事はきつかったですね。一人でスーツ着て見知らぬ国の地下鉄で移動して、取材して、記事書いて。どうやって売上を上げたらいいのかも分からない。休日に公園に行って、気づいたら5時間経ってたことがあります。鬱ですよね。ぶつぶつ独り言を言いながら、公園を5時間も歩き続けていた。

 

 それはメキシコに到着してどのくらいの時期ですか?

 

 3か月ですね。収入もそこまであるわけではないので、食べていくだけで精一杯。気持ち的にも体力的にもすごく落ちていました。ビザが半年なんですけど、収入が無いから帰りの航空券も買えない。

 

 メキシコに誘ってくれた社長からは、なにか手助けはなかったのですか?

 

 別事業が遠い都市だったのと、会社の運営は見てはいるけど、無茶ぶりしてもその現場で人は成長するだろうという良くも悪くも体育会系の方でした。ちょうどその頃に、JETROから雑誌立ち上げの仕事の話をいただきました。当時、メキシコ在住の日本人は約1万人で、ぼくのウェブページがちょうど1日1万件プレビュー。一応、メキシコに住んでいる日本人のほとんどの方に知っていただけているメディアになっていました。大使館の次に見る日本語ウェブメディアになっていた。

 

 良かった。努力が報われそうですね。

 

 JETROの方から求められていたのはメキシコの消費市場をまとめた雑誌ということでした。プレゼンが採用され、その契約の10分の1をインセンティブでもらえることになった。これで帰れる!と嬉しかったです。

 

 そこでの感情が、帰れる、なんですね。面白い。

 

 着金した直後に帰国の航空券を買いましたね。納品期限が短く大変だったんですけど、そこから3か月間カメラマンといっしょにメキシコ中をインタビューして雑誌をつくりました。鬱になったことも忘れて、帰るために必死にやりました。残ったお金もカジノや洋服ですってしまって、メキシコに来た時も帰る時も無一文。

 

 波乱万丈だけど、無事、帰国できて良かった。メキシコ滞在は半年間なんですね。すごい密度です。

 

 帰国してから、泊まるところがないことに気づいて、Facebookで友達にお願いして居候させてもらいました。それでまた同じバーに復帰して、メキシコでの濃い経験もあるし、調子乗ってやってたら、業績がバーンと落ちました。お客さんの層が変わっていたことに気がつかなかった。大学にも復帰するんですけど、調子狂うなぁみたいな。

 

 ちょっとした浦島太郎状態ですね。

メキシコでの格闘
アオイエとの出会い

 そのバーで、昆虫食の事業に挑戦している人と友達になって、その人がアオイエというシェアハウスに連れて行ってくれたんです。下北沢の一軒家がシェアハウスになっていた。そこで同世代の人たちが日本の政治とか夢を語っていた。今までバーで出会った年上の人たちが話しているようなことを同世代の人たちが語っていたので、感動しました。そこはアオイエとして2軒目のシェアハウスで、すぐに入居しました。

 

 探していた場所を見つけたという感動。

 

 はい。半年くらいたった時にアオイエの代表から会社にするから手伝ってほしいと誘ってもらいました。ぼくの田舎コンプレックス、地方格差、教育格差を解消できると嬉しかったんです。シェアハウスは住居にコミュニティがついてくる。しかも暮らしの中なので、コミュニケーションの量が、とてつもなく多い。コミュニケーションをすればするほど、互いの思考が深まっていく。ぼくの世代(20代)はSNSなどが当たり前のソーシャルネイティブです。普段、SNSばかりやっていて、面と向かって話すことが少ないから言語化する能力が昔に比べて下がっていると考えています。実際のコミュニケーション量を増やして思考力を鍛えるには、アオイエは最適な場所だと思いました。これが日本全国にできたら、おもしろいことになるなと。さらにオンラインでも繋がったら、情報格差がなくなる。東京のアオイエから福岡のアオイエに飛び込んだらすぐに濃いコミュニティに繋がれる。

 

 なるほど。そういう想いがあったんですね。

 

 今思えば、甘いなというところもあるんですが、のめり込み、どんどん軒数を増やしました。そして2018年4月、関西に展開しようということになりました。

 

 そのどんどん軒数を増やすことができた理由はどんなことでしょうか?どんなシェアハウスでもコミュニケーションが増えるわけではないですよね。そこにどんな文化があったのでしょう。A-KIND塾5期生の高本昌宏さんが所属されているADDressでいえば、家守制度みたいなファシリテーターがいるじゃないですか?どうやってコミュニケーションの量を担保していたのですか?

 

 各家にキーパーという管理人のような人を置きます。新しい家には、まずはアオイエスタッフがキーパーになり、文化をつくっていきます。

 

 キーパーは具体的にどんなことをやるのですか?

 

 物件を見つけるところから、その物件に人を呼んで、どんなコミュニティや空間をつくりたいということを伝えていきます。人を集めていって、コアメンバーができ、一定のコミュニケーションが達成できたタイミングで次のフェーズに入ります。普段の外の日常会話ではしないような、「なぜ死は存在するのか」、「なぜ生きているのか」、「夢はなにで、どうやって叶えるのか」、哲学的な話題を日常にぶっこみます。

 

 普通にリビングでお茶飲んでいるときに、キーパーが問いかけていくということですね。日常に波紋をつくる。

 

 そうです。それを続けていると、それが普通になる。朝ごはん食べながら、「そういえば京都ってこれからどうなってくんだろうね」みたいな。

 

 なるほど。そこから話題が政治や仕事に深まっていく。

 

 そうです。そのちょっと深い日常会話からイベントになったり、事業に振れていったりする。

 

 京都に来たり、どんどん軒数が増えても、同じやり方で、期待を超えるようなコミュニケーションが生まれましたか?

 

 だいたい毎回なりますね。なにかしら鬱憤が溜まっているけど、発散させる場所が足りていない。若者が持て余した熱量を、アオイエという熱狂的なコミュニケーションの場で昇華してもらっていた。

 

 ということは、若者は潜在的にそういったコミュニケーションを欲しているのかもしれませんね。寝食共にしているアオイエが安心安全の場所になった。例えば自分からちょっと変わった話題を振っても、バカにされないというような安心感をつくったわけですね。

 

 まさしくそのとおりです。みんな何事にも全力なので、恋愛関係などのトラブルもあるんですけど、違う物件に引っ越してもらったり、できる限りの対応をしてました。

 

 京都にはすっと入れましたか?

 

 最初はめっちゃ苦労しました。参入当初、アオイエではない、単なるシェアハウスが出来上がってしまった。そこでテコ入れのためにぼくが東京から送り込まれたんです。京都と東京の違いはSNSの利用量。京都はSNSから情報は得るけどアクションに繋がらない。その分、口コミが圧倒的に強いです。東京はSNSから、すぐ会える。人と会うハードルが低い。でも一期一会を大切にできていないかもしれません。京都の入居者流入は基本的に人からの繋がりですね。ぼくが京都に来て、最初に会ったのが株式会社talikiの中村多伽だったんです。共通の知人がいて、同い年で、お互いまだ学生で、経営にも携わっていて。アオイエの方は、一度、京都を撤退するというところまでいったんですけど、プライドかなぐり捨てて、1日5アポくらいとって、人と会いまくりました。中村といっしょにイベントをやるようになって、そこから繋がった入居者が多かったです。

 

 やってることがメキシコ時代とあんまり変わってないのが面白いですね。

 

 そうなんです。そうしたら入居者がどんどん増えて、しかもアオイエらしい入居者ばかりだったんです。京都イケるじゃんと。今では、京都に3軒、大阪に2軒、シェアハウスを展開しています。



(2020年10月インタビュー)