インタビュー

成長を続ける人材育成部長【前編】

<A-KIND塾5期生>
株式会社ヒューマンフォーラム 人財育成部 部長
大槻彦吾 さん
はじめに

矢端信也(以下、矢) こんにちは。信頼資本財団のライター&コミュニケーターの矢端です。財団のA-KIND塾、未来設計実践塾と二つの塾の卒塾生に近況を聞いて回るインタビュー企画を行っています。前回が初めてのインタビューで、京都にて平飼い卵の生産販売を行うWABISUKE代表取締役の岡崇嗣さん(A-KIND塾5期生)にお話を伺いました。(https://shinrai.or.jp/interview/20200731.html


 次のインタビュー候補を岡さんにご指名いただき、A-KIND塾同期の大槻彦吾さんの名前が上がりました。理由はあんなに懐が深い人は見たことがない。底知れない人生経験が漏れ伝わってくるとのことでした。岡さんに、大槻さんの事前情報を聞こうとしたのですが、そんなにゆっくり話したことはないということで、これを機に仲良くなりたいとおっしゃっていました。


大槻彦吾(以下、大) 懐の深さはあまり自覚がないけど、関心を持ってもらえているのは嬉しいですね。

矢 この企画はインタビューの前に、なるべくインタビュイーの職場を訪問させてもらっています。先日、大槻さんのお仕事の一つである人材育成プログラム「ヒューマンフォーラムCAMP」に同席させてもらいました。すごく貴重な現場を目撃したような気持ちでいます。まずは所属とメインのお仕事から教えてもらえますか?

はじめに

 株式会社ヒューマンフォーラム、人材育成部の部長です。企業理念に適った人材育成がメインのお仕事。経営メンバーの一人でもあるので、全社的な経営判断に関わることもあります。あとは新規事業プロジェクトを進める役割。人材育成となると人事考課にも繋がるので、人事関係ですね。社員さん、アルバイトさんの未来を決めていくことになるので採用にも携わっています。

 会社のヒトに関わるところ全般という感じですね。

 今は店頭スタッフの採用に直接、関わることはありませんが、採用の方針など面接カリキュラムも作りました。あとはヒューマンフォーラムの社員採用の特徴として、アルバイトから社員になるのに1年間くらい掛けて「合格できる」面談を行います。最初の面談でスタッフに課題を伝えて、最終面談までにその課題をクリアしていくという採用過程です。さらにその後、新入社員1年目の研修を受けてもらいます。その全体の設計を行っています。

 かなり手厚い人材育成プログラムですね。もともとそういった人事系のお仕事されていたんですか?

 いえ全く。

 ヒューマンフォーラム入社はいつ頃ですか?どういった経緯で入社されたのですか?

 2012年です。元々は取引先でした。メーカーの営業マンですね。生産部を経験して、営業部に回って、担当したのがヒューマンフォーラムです。

 ぼくも元々、フェアトレードの衣料やコーヒーを扱うシサム工房という会社で卸営業でした。その時の取引先の一つがヒューマンフォーラム。

 そうですか。前職を退社した時に今の社長の岩崎仁志さん(A-KIND塾3期生)に誘ってもらって。ヒューマンフォーラムでも最初は生産を担当していました。

 最初は人事や人材育成ではなく、生産管理を担当していた。

 はい。韓国の大学を卒業したので、韓国語を使えたんです。業種としてはアパレルが良かった。

 韓国の大学にはなぜ進学したんですか?

 高校生の時に本当はアメリカに行きたかったですけど、お金が足りなくて。色んな人に相談しました。そしたら地元の先輩が、英語喋れる日本人なんてありふれてくるだろうと。これからは絶対にアジアの時代が来るから、中国か韓国が良いとアドバイスをもらいました。今から20数年前です。

 慧眼ですね。

 その先輩が、中国語は文法が全然違うから難しいけど、韓国語は文法も日本語といっしょだし楽勝だよって、言われて。日本国内の大学の推薦をもらっていましたが、先輩の言葉を真に受けて、じゃ韓国にします!と。

 それでは高卒ですぐ韓国の大学に渡ったわけですね。その決断力はどうやって養われたのでしょうか。

生い立ちと行動習慣、韓国留学

 ルーツから話すと、家族が転勤族でした。これまで人生で27回の引越しを経験しています。生まれたのは千葉、その後は四国の松山、千葉に戻って、滋賀、兵庫、滋賀に戻って、熊本、京都。高校は東京でした。そうした過程で、たぶん潜在的に人とは違う人生を生きているという自覚がありました。

 ぼくは逆に二十歳まで実家にいたので、その人生は全く想像できません。多くの人が経験できることではないですよね。

 それとなぜか高校二年生のときに普通の人生を歩まないと決めました。

 それはなにかきっかけがあったんですか?

 うーん、なにがきっかけだったか覚えていませんが、今でも続けていることがあって。例えば公衆便所は絶対に真ん中の便器を選びます。電車でもベンチシートは真ん中に座る。高校二年生のときに、普通の人は端を選ぶ傾向があると気づいて。真ん中に座ると居心地が悪いじゃないですか。だから自分はあえて真ん中に座ろうと意識しています。

 高校生のときから観察眼や洞察力があって、なおかつ逆張りするような決意をした。面白いですね。

 自分でも変わってるなと思います。でもあの時、変えた行動習慣を今でも続けていることで、あの高校二年生のときの気持ちを忘れないでいられるんです。普通じゃない人生を歩むという決意があって、韓国もその決意に後押しされた。ただ行ったら、全然楽しくなかった。

 え、楽しくなかったんですか?

 全然、楽しくなかった。食事はキムチばっかりだし。今はK-POPとかファッションとかテレビドラマとか面白いですけど、当時はそんな楽しい文化が全然なくて。夜12時になったらお店は営業してはいけないような状況。韓国に行って最初の一年間は語学学校に通っていたんですけど、先生からの評価も一番低くて、夏休みには親にまで連絡されて。そのことで頭来て、「だったら絶対、韓国で大学行ってやる」みたいな。最初はそんなに大学も行く気なかったんだけど。

 反骨精神を刺激されたわけですね。

 そしたら本当に大学に合格できました。でも反発心で努力してたから、結果が出ても「本当にやりたかったことってなんだったんだろう」と。入ってすぐに辞めようかなと思ってたら、同じ大学の韓国人学生から「どうしたの?」と聞かれて。「もう辞めようと思ってる」と打ち明けたら、歳を聞かれて。19歳と答えたら、「まだ人生いくらでもやり直しできるから、せっかく入ったんだから、ここでもう少しやってみたら」とアドバイスされて。単純なんで、すぐに思い直して、それで結局、韓国の大学を卒業できました。韓国で大学生のときに、アパレルで働きたいという想いも芽生えて。

 すごく優しい方ですね。アパレルはなんでやりたいと思ったんですか?

 元々は映画監督になりたかったですよ。小学校2年生のときに、母にデビッド・リンチ監督の「エレファントマン」という映画に連れていかれました。奇形を持って生まれた人が見世物小屋に入れられて、ヨーロッパを連れまわされて、瀕死の状態になってしまう。その時、裕福な人に助けてもらって、初めて人間として扱ってもらえるというストーリーです。観始めた時にはホラー映画だと思って、怖くて、手で目を覆いながら観てました。白黒の画面と虐待されるような描写が嫌だったんですけど、だんだん映画が面白くなってきた。それで最後のシーンで、ひとり泣きながらスタンディングオベーションしていたんです。

 映画館でスタンディングオベーションは、すごい体験ですね。

 強烈な印象でした。映画の帰りに、松戸のレストランでハンバーグを食べながら、母に「良い映画だったね」って感想を話していたことを覚えています。その体験から映画監督になるって決めました。表現したい人だったんですよね。
 高校時代は美大を目指して、水道橋の塾に通っていた。でもそこで先生に、「写真のように描かなきゃダメなんだよ」って言われたことがあって。じゃ写真でいいじゃんってムカついてしまった。それで絵画や美術というより、美大に行くことに興味がなくなってしまった。

 ここでも大槻さんの反骨精神が刺激されてますね。

 中学生の時はバレーボール部だったんですが、バレーボールじゃ世界の人と友達になれないと思って、高校生の時にサッカーを始めました。ボール一つあればいいわけだから。でも高校の部活ではなく、部活をドロップアウトした高校生が入るクラブチームに、経験もないのに入りました。ド素人はぼくひとりだけだったけど。

 世界への視線というものは高校生の頃から持っていたということですね。それからやっぱり普通じゃない道を選んでいますね。


 そうですね。その頃に図書館で本を借りて、独学でロシア語を勉強したこともあります。「ゾラストビーチェ」「カックバーシュファミリアオオツキ」とか、挨拶だけは今でも覚えています。先輩の影響もあったのかな。

 それでアパレルはどこから?

 ちょうど韓国で大学生をやっていたときに、日本では裏原ブームで、輝いて見えました。ぼくの中で、映画を作るのも表現だけど、自分のファッションのブランドを作るのも同じだなと思えて。大学卒業して帰国したけど、就職活動というものを知らないので、どうやったらアパレルの会社で働けるのか分からない。京都の舞鶴の実家の近くにはアパレルの会社なんてないから、親に5万円借りて夜行バスで奥田民生の「さすらい」を聞きながら上京しました。

新聞配達とアパレル業界での仕事

 いいですね。青年が夢を持って大都会に繰り出していく。

 でも5万円なんて、東京の友達と飲んで使ってしまって。アパレルの会社に履歴書を送るけど、全く音沙汰がない。いつまでも友達の家に居続けるわけにもいかないなぁと、とにかく仕事を探すことにしました。「すぐ働ける・お金を少し前借できそう・住むところもある」という3つの条件でアルバイトニュースを見ていたら、候補が2つ見つかりました。新聞配達とパチンコ屋さん。新聞配達の方が辛そうだなと思って、新聞配達を始めました。

 その辛い道を選ぶというのはなぜですか?確かに朝も早いし、大変そうな印象があります。

 小さい頃から祖母に、「2つ道があったら辛い方を選びなさい」と言われていたんです。あと今、話してて思い出したのは、どっちの方が後でネタになるかなと思って。友達に話したら、新聞配達の経験は結構、ストーリーとしてウケそうだなと。

 若い頃のその感覚は分かる気がしますね。それでやっぱり辛かったですか?

 泣きながら配りましたね。というか最初は配ることさえできなかった。難しいんですよ。全部、ポストに入れたらいいと思ってたけど、この家はシャッターを上げて挟むとか、この家は隣の家の窓のサッシに入れるとか。最初の一回は先輩といっしょに行くんですけど、翌日から一人。順路帳はあるんだけど、思い出せない。普通、個配する世帯数よりも一部だけ多めに持って出るんですよ。それで戻ってきたら手元に一部残っていて正解。だけど最初の頃、400軒受け持っていて、毎回、10部くらい持って帰ってきてしまう。

 10軒に届けられなかったということですね。

 そうなんです。それを欠配っていうんですけど、ペナルティがあるんですよ。翌日の折り込み広告チラシを作る作業を一人でやることになる。それで欠配が続いてしまって、寝る時間を削って、その作業を一人でやり続けなければいけなかった。アパレルの仕事のために上京したのに、新聞配達かよって、気持ちで。でも心のどこかで、これを理由にこの仕事を辞めたら、どこに行っても同じようなことで辞めてしまうような気がした。
 それで思考を変えて、とにかくこの店で一番になってやると決意して。配達を研究して、欠配も起こさないように。チラシ作業も単純作業なんだけど、自分以外の人といっしょにやるときは、とにかく面白い話をして笑かしまくった。楽しいから時間が過ぎるのも早いじゃないですか。そうしたら配達作業も一番になって、だんだんと居心地が良くなってきた。

 奮起して、自分で状況を変えていったわけですね。

 新聞配達の仕事が良いな、楽しいなって思っちゃった。同僚も最初はやばい人ばっかりかなと思っていたけど、結婚してマンション買ってるような人もいたし、この仕事で暮らしていけると思った。それで辞めることを決心した。

 安住しなかったわけですね。アパレルへの熱意は消えなかった。

 店長に退職の報告をしたら、送別会をしてくれるということになって。休刊日の前日が定例の飲み会だったんですけど、普段はだれも来ない。せっかくの休日の前だから、みんな早く遊びたいんです。だけどぼくの送別会には、全員が集まってくれた。店長も呼び掛けたけど、来るわけないと思ってたから物凄く驚いて。全員参加なんて店が始まって以来だと。それを聞いて、別の意味でこのお店で一番になれたなと感じました。必要とされたからこそ、卒業のタイミングだったのかなと思えた。

 良い話ですね。仕事への取り組み方を変えたら、仲間に認めてもらえた。それでアパレルへの転職は順調にいったんですか?

 いや全く。書類は通って、面接まではいくんですけど、受からない。ちょうど最近、あの時、なぜ受からなかったのかが分かりました。ぼく面接で、早く仕事覚えて独立しますって毎回、言ってたんですよ。

新聞配達とアパレル業界での仕事

 採用面接に来てるのに、辞める前提ですもんね。向上心や独立心はよいけど、使いにくいかもと思わせますね。

 なかなか受からないんで、一回、実家に帰りました。その間も東京にいる友達からバイトニュースを送ってもらって、下着屋さんだろうがアパレルであれば全て履歴書を送りました。それでなんとかアパレル関連の仕事に受かって、韓国での生産管理の仕事を受け持つことになった。

 夢が叶いましたね。

 ただその会社がクレープ屋事業を始めて、その担当に指名されました。一店舗目の立ち上げから関わって、三店舗目の富士急ハイランド店の店長になりました。

 またアパレルから離れてしまうんですね。

 そうなんです。ただそのお店で最高のチームが出来上がった経験は今の人材育成にすごく活きています。でもまた新聞配達の時と同じ危機感を感じて。クレープ屋さんが楽しくなっちゃった。それで軌道修正して、別のアパレルのメーカーに転職しました。それが前職の会社です。そこでは12年間、働きました。

ヒューマンフォーラムと運命のカワハギ

 その会社はどうして辞めることになったんですか?

 モチベーションが続かなくなったからです。39歳のある日、仕事に向かう前に洗面所で歯磨きをしてたら、長男がドラム式洗濯機がゴロゴロ回っているのを、目を輝かせて覗き込んでいた。それでこっちは今日もやだなぁと思っているけど、本当はこの子よりも39倍に目を輝かせていなければダメじゃんと思った。この子に残したいのは、お金でも家でもなくて、毎日楽しそうに仕事してたなぁという記憶だなと思って。それで家族に退職を相談しました。

 なるほど。ヒューマンフォーラムとは取引先だったわけだから、すぐに転職ですか?

 退職したことは報告していたけど、特に転職が決まっていたわけではありません。退職後は、次に何していいか分からなくなった時期もあった。目標にしていたアパレルでブランドを作るということも経験できたから。それでホテルも決めず、事前にはだれにも言わずに、韓国でお世話になった人達に挨拶に行きました。もし時代が求めていたら、なにか起こるんじゃないか思っていた。東大門でバスを降りたら、韓国での取引先の社長にばったり出くわして、社員寮で寝泊まりさせてもらえることになりました。そこのスタッフの子たちと毎晩、いっしょにお酒を飲みながら話していると、たくさん夢を語ってくれた。そんな風に過ごしていた韓国での最終日に、社長の岩崎さんに会いました。

 すごく良い流れに思えますね。ヒューマンフォーラムでの仕事は最初から前向きだったんですか?

 帰国して、会長の出路雅明さん(A-KIND塾1期生)と海鮮居酒屋に行ったときに、お任せコースで最初に出てきたメニューがカワハギのお造りだった。ぼくはこの世で一番おいしい食べ物はカワハギだと思っている人間なんです。その偶然が、何かがぼくのことを歓迎してくれていると感じました。

 アジでもタイでもなくカワハギだったところが決め手だった。大槻さんになにかお願いするときは、カワハギのお刺身を用意することにします。ヒューマンフォーラムでの仕事はどんなものだったんですか?

 ぼくは横浜に住んでいるので、月曜日に京都に来て会議をして、火曜日の始発で韓国に飛んで、金曜日に羽田に戻ってというルーティンですね。

ヒューマンフォーラムと運命のカワハギ

 人材育成はどこから?

 3.11後に為替が変わって韓国での生産や仕入れが見合わなくなりました。韓国での生産管理の仕事がなくなってしまって、会社に貢献できるのはどんなことかと考えて、一時期は原宿店の販売スタッフもやりました。それまでヒューマンフォーラムの特徴として人材育成という要素はあったけど、部署としては確立していなかったので、ぼくに話が回ってきて。最初はやったこともないし、生え抜きの人がやるべきだと思っていました。ただそんな話があったときにゲイの友達のことをふっと思い出して、その彼はある意味、女性よりも女性の美に敏感なんですよ。

 IKKOさんみたいな。

 そうです。女性じゃないからこそ、女性の美に正直だったりする。そういう意味では、生え抜きじゃない自分だからこそ、できるところもあると思ってやらせてもらっています。

 前回の岡さんのインタビューでは、岡さんはお母さんの影響で、仕事に対して前向きになれたというお話を聞きました。大槻さんはお子さんを見て、自分の仕事を変える決断をした。今、お子さんはどんな風に感じているのでしょうか?

 この前、すごく嬉しかったことがありました。子どもに将来、何になりたいか聞いたら「パパと同じ会社に入るよ」って言ったんです。なんで?と聞いたら「だって遊びに行くみたいに仕事に行くじゃん」って言われて。家族にも仕事でこんなことがあってさ、とか面白かった話をよくしているので、伝わるものなんだなぁと嬉しかった。