インタビュー

人生をかけた平飼い卵【前編】

<A-KIND塾5期生>
株式会社WABISUKE 代表取締役
岡崇嗣 さん
はじめに

矢端信也(以下、矢) こんにちは。はじめに企画の説明をさせていただきます。

 2020年6月から、ぼくは信頼資本財団のライター&コミュニケーターというお仕事をすることになりました。兼業のうちのひとつですけどね。
これまで財団の社会事業塾A-KIND(アカインド)塾3期卒塾生として関わってきて、具体的には卒塾生会の企画・運営を2年間ほど誰に頼まれるともなく主体的におこなってきました。
 信頼資本財団は今年(2020年)の1月、11周年を迎えました。主に無利子融資、助成、塾運営の3つの事業をおこなっている財団なので、塾生だった頃から合わせて3年の間に、色々な社会起業家や営利・非営利を問わない社会事業組織、行政の方々とのつながりができました。一方で、財団をきっかけにつながった人たちの関係が、どんな風に発展しているのかまでは、なかなか把握できていません。
 A-KIND塾は今年、6期生を迎えています。1期に各20名の参加者がいるので、卒塾生だけで100名。行政職員が対象の未来設計実践塾を合わせると、卒塾生は130名近くになります。その卒塾生が今、何をしているのか、どんなきっかけで財団の塾に参加されたのか、塾に参加してくれたことで、どんな変化があったのかをお聞きして、まとめてみようと思い立ちました。
信頼資本財団にはどんな方々が関わってくれたのか、どんなことが広がりそうで、どんなことに困っている人がいるのか、どんなことを財団やそのネットワークに期待しているのかを、一人一人に聞いて回って公開することで、財団の次の10年がより有機的に発展すれば嬉しいと考えたからです。
そんな話をしたところ、財団事務局から、「それなら取材してくれた内容をしばらく更新できていないインタビューコーナーに掲載していきましょう」と話がありました。

 そして、その記念すべき第1回を岡さんにお願いしました。


岡崇嗣(以下、岡) なるほど。まず、なんでぼくなんですか?

矢 それはですね。多種多様な業種の方が往来する財団の活動の中で、できれば初回は仕事内容がより具体的にイメージできる方に、お話を伺いたいと思いました。0→1の価値創出をしていて、現場を持っていて、事業のフェーズが成長段階にある方。そんな方がどんなことをA-KIND塾で経験して、どんなことを財団に期待しているのかを聞いてみたいなと思いました。もう一つは、先日、養鶏場を視察させてもらった経験がすごく刺激的で、やはり「現場」を持っている方のお話はおもしろいと思ったからです。
 あえて今回、岡さんについて予習してこなかったのですが、なぜ養鶏場をされているのですか?それもなぜ平飼いという手間のかかる方法にこだわっているのですか?そうしたところを原点からお話伺えれば嬉しいです。

はじめに
学生時代の経験と働く母の背中

 どこから話そうかな。ぼくは大学生の時に京都学生祭典(https://kyoto-gakuseisaiten.com/)という学生団体に携わっていました。京都府や京都市も共催していて、年間予算が1億円くらいの大きな組織です。3年目には副委員長のような立場を務めていて、すごく楽しかったんですよね。

 文化祭実行委員みたいな感じですか?もしかしてそこで奥様と出会われた?

 そうですね。妻との出会いは全然、別なんですけど。何が楽しかったのかと聞かれてしまうと説明が難しいのですが、熱中しました。ただ大学3年間を京都学生祭典に没頭して、疲れてしまって、就活の時期になっても、なかなか切り替えれなかったんです。

 リーマンショックの前ですか?ぼくら、同世代ですよね?今、三十代半ば。

 2010年卒でリーマンショック直後が就活の年です。1学年上が最も売り手市場でした。燃え尽き症候群の中で就活を始めて、人事系・会計コンサルを志望していました。

 あ、就職活動されたんですね。学部は経営学部でしたか?

 そうです。管理会計のゼミで、卒論はキャッシュフローで書きました。「割引現在価値」とか小難しい単語を使っていたのですが、学業として興味津々というわけでもなかった。ただ経営や会社運営には、高校卒業くらいから、すごく関心がありました。

 それはなぜ?

 母の影響ですね。仕事が楽しいものだというのを、母から学んだような気がします。すごく働く人だったんですよ。うち母子家庭で、家事は祖母と叔母に助けてもらって。母は朝7時前に家を出て、帰宅するのが2時とか。

 すごいですね。なんの仕事されてたんですか?

 メーカーです。50歳くらいで役員になったのかな。当時としては女性で役員は珍しかったと思います。たたき上げでガンガン仕事してました。負けん気も強いし、とにかく仕事を楽しそうにやってたんですよね。その姿を見ているから、ビジネスは楽しいものだと刷り込まれて。楽しくないとできないじゃないですか。朝から晩まで。今でも仕事してますけど63歳かな。やっぱり楽しそうに見えますね。

 お母さんの背中を見て、仕事というものをポジティブに捉えていたんですね。

 そうですね。だから仕事をすることに対しては前向きだった。ただ京都学生祭典の引継ぎが終わるのが大学3年生の冬頃で、就活には出遅れてしまった。学生時代の経験は、同級生よりも大きいという自負と燃え尽き症候群の狭間で就活が始まりました。最終面接までいった企業もいくつかあったんですけど、ことごとく最終面接で落ちたんです。生意気だったんだと思います。

 なるほど。若かりし頃の血気盛んな岡さんが目に浮かびます。

人生を変えた1時間からメキシコへの扉

 就活がなかなかうまくいかない中で、ある会計コンサルから内々定のようなお約束をいただきました。その時点で他に可能性のあった企業をすべてお断りしたんです。そして最終面接という名ばかりの、その企業の会長と社長と内々定者全員での食事会がありました。そこに1時間遅刻してしまって、ぼくが到着した時には他の参加者はすでにご飯を食べ終えていた。ぼくはその遅刻した気まずい雰囲気の中で、食べながら会長や社長に受け答えしなければいけなくて、全く返答ができなかった。そして連絡があり、最後の最後で不採用になりました。

 え、寝坊ですか?

 いや。ぼくが乗っていた電車が途中の駅で止まってしまったんです。翌日の報道で、その電車が止まっていた理由を知るんですけど。なんと乗っていた鉄道会社の職員さんが、当日、出勤に遅れていたそうで、遅刻になるのが嫌で踏切の非常停止ボタンを押した。その1時間。

 すごい経験ですね。

 それで泣く泣く就職留年するのかと思っていました。その頃、ちょうど母が務めていた会社がメキシコに市場開拓を目論んでいた時期で。

 メキシコ?

 はい。母の会社の社長としては、生まれた時から抱っこしていたような同僚の子どもがどうやら就職も決まらずふらふらしているぞと。それならメキシコ行って来いと。

 なるほど。ということは、お母さんの会社に新卒で就職したということですか?

 いや、留学です。就職を前提というわけではなかったですが、可能性としてはあったと思います。実際、うちに来るか?というような言葉をかけていただいた。ぼくとしては乗り遅れたと思った就活で、成果が出たと思ったら、そんな結果だったこともあって、投げやりになっていた。リーマンショック直後で就活そのものも荒れていて、周りでも留学や大学院に行って時間稼ぎをするみたいなことも多かったんです。それでその留学の話に乗ったんですね。

 ということは、メキシコには興味もなく?

 全然ありませんでした。母の勤めていた会社は、国内シェア9割くらいある卵の選別包装機械のメーカーです。当時、メキシコは一人当たりの卵の消費量が360個、世界で一番多かった。

 全国民が毎日、卵を食べている。

 そうです。全人口1億人が。だから留学の研究計画も鶏卵について。

 すごいですね。急にワールドワイド。そしてやっと鶏卵が出てきた。

 ただですね。大学や研究と言っても、スペイン語です。今まで勉強したことない。

 そうか。オラくらいしか分からない。

 渡航前の半年間、必死で猛勉強して。とにかく単語を詰め込んで。

 そこは偉いですね。決まったらやるぞと。

 でもメキシコに到着後は、なんとなくでしか来てないから。

 そうか。国際協力とかに興味があったわけでもない?

 全然ありませんでした。ただ色々と社会問題は調べていて、ジニ係数を知りまして。

目の当たりにした世界

 貧富の格差ですね。

 はい。当時、世界一の大富豪はカルロス・スリムというメキシコ人だったんです。日本だったら独禁法にひっかかりそうなものですが、いわゆるNTTとauの代表が同じ人だったりする。そうかと思えば、田舎の駅前では子どもが裸足で1個5円のガムを売っている。そこでこれはおかしいぞと問題意識が芽生えました。

 富の偏在を目の当たりにしたわけですね。

 そこからJICAや国際協力に興味が湧きました。でも青年海外協力隊ではないかなとか。

 ぼくは青年海外協力隊としてケニアに2年間、赴任していましたが、確かにメキシコはあまり協力隊のイメージはないですね。もう少し南の国だったら同期も赴任していたかな。

 メキシコでは協力隊の人とは出会えなかったですね。しかも自分の中にまだ変な大手志向のような意識が残っていました。ずっと野球をしてきて体育会系で在メキシコ日本人会の方々にも可愛いがってもらえたので、大手商社の駐在の方からの推薦で就職できたらなとか期待していて。

 すっと国際協力にもいかない。

 それで一応、養鶏の勉強に来ているので、世界最大の養鶏場に飛込みでインターンシップの希望を伝えて。マネージャーには会えたけど、ほとんど門前払いでした。色々と動いてはみたものの、あっという間に1年が過ぎて、帰国しました。

 メキシコで平飼いに目覚めたのかと思ったら、まだですね。でも貧富の格差や国際協力、途上国支援など問題意識の種は持ち帰ってきた。

 もやもやしていて。だけどコレというものは見つからず。大学も丸2年間休学して帰国したのが夏。ここから翌年4月以降の就職のために準備するのも違和感がある。母の会社への就職にも違和感がある。そこでなにかないかと探している中で、養鶏で村おこしをしているJICAの記事を見つけました。プロジェクト自体はうまくいったんだけど、凶弾に倒れてしまった方がいるというストーリーでした。それでコレだ!と。

 岡さんの中で、養鶏と途上国支援が結びついた。

 そうですね。そこで、会う人会う人に、「オレは海外で養鶏場をやることに決めた!」と宣言しました。ちょうど卒業旅行で1か月間、中米7か国をバックパックでぐるっと回ったんですね。養鶏で村おこしすると決めてるから、JICAの方や青年海外協力隊の方にも各地で会わせてもらって。そしたらまたなにか違和感を感じるわけです。国際協力を仕事にするってこういうことなの?って。

 ニュアンスは分かります。JICAのどこか官僚的な雰囲気だったり。自分のモラトリアムを途上国支援という終わりのない目標にすり替えてしまっている協力隊の雰囲気でしょうか。

 本当に現地の人たちのために燃えている人には、なかなか出会えなかった。

 それはね。本当に燃えている人は農村や地方の現場にいて、首都にはあまり顔を出さないのかもしれない。

 そうかもしれない、今、謎が解けたかも。援助漬けの現場も見てしまって。そこから現地の人がやりがいのある仕事を持つということが一番、大事なんじゃないかと思いました。それで余計、養鶏が価値あるものに思えて。帰国して再度、「オレはエルサルバドルで養鶏場をやることに決めた!」と宣言するわけです。そしたら全員が大反対。養鶏場の仕事ってどんなものか知ってるのかと。母の会社は養鶏業界の隅々まで知っている。なにしろお客さんが養鶏場ですから。

 しかも「うちに就職するか」と声をかけていた役員の息子が急に言い出したわけですもんね。